通り過ぎる風景

一枚の写真の話だ。
それは、僕がバスの車窓から写したピントのぼやけた踏切の写真。
当時、僕は横浜市の公立高校に通う2年生、修学旅行で北海道に来ていた。日高、美瑛、富良野、登別、函館。初めて訪れる北の大地ではしゃぐ僕たちを乗せ、町から町へとバスは移動した。心地よい疲れの中、ふと車窓を眺めると線路が並行して走っていた。田園の中を、踏切がひとつ、またひとつと過ぎていく。あ、と思い、急いでカメラを取り出しシャッターを切った。景勝地でもない風景に、衝動的とも言えるほど惹かれたことを今でもはっきり憶えている。
その後、僕は大学に入り、卒業後に就職、いわゆる一般的な道を進んだ。だが、1年2か月後、「絵描きになる」と言って会社を辞めた。あくせく働き年を重ねることへの違和感や、志せば何でもできるという生意気さがあった。僕は自由を得て、思う存分絵を描いた。なのに、2年足らずで自分を見失い、そして絵が描けなくなった。
ある日、アルバイト情報誌のリゾートバイト欄に、「北の国 富良野で農作業しませんか?ヘルパー募集!」とあるのを見つけ、「あそこに行けば、いい絵が描けるかな…」と思い、北海道に行くことを決めた。
遮るもののない広く大きな空の下で農作業をする快さに、都会での疲れも吹き飛ぶ思いがした。体力だけはあったから、少しは役に立てることがうれしかった。地元の人たちはとても優しくて、そして決まって、「富良野って、そんなにいいかい?」と訊いた。そのたびに、暮らしている人は気付かないのかなぁと思った。僕の目には、どの風景も絵に見えた。
僕は、この地に居付くようになった。定住する意思を見せたことは地元の人たちとの距離を縮めてくれ、そして僕も、彼らをもっと知るようになった。
畑にひどい病気が広がった年がある。農作物がやられ、収穫がほとんど見込めなくなった。「しゃあないね」。農家さんはそう言って慌てるそぶりも見せず、普段とあまり変わらない様子で作業をした。そんなに深刻でもないのかなぁと訝しんでいたが、10年も経った今になって、「あの時の借金をやっと返し終わったよ」なんて笑って言うので驚いた。やっぱり大変だったんじゃないと思ったけど、「あることだから」とでも言うように割り切った様子でいたのが印象に残る。時には大雪でビニールハウスがつぶされたり、干ばつや長雨や台風に見舞われたこともある。自然と対峙する以上様々な事象が起こるのだけど、大変な時にこそ彼らが見せるさばさばした態度に、彼らが達観というか諦念というか、一種の悟りを備えていることを知った。
冬が、あるからかも知れない。冬は避けがたく訪れ、この地に暮らす人に等しく忍耐を強いる。不平を言っても仕方ないのだ。皆で分かち合い、温め合い、辛抱強く堪える。それは厳しく長いけれど、だからこそ春の到来にあれほどまでの喜びを感じる。雪が融け、青葉の芽吹く輝かしい春。僕は、この地に暮らし、耕す人の顔が見えるようになって、はじめてこの風景の持つ本質的な美しさが少しわかった気がする。
あの時バスの車窓から通り過ぎる風景に僕が抱いた気持ちは何だったろう。富良野から中富良野、上富良野へと続く基線を線路と並んで車で走るたび、どこかへ行ってしまったあの写真を思い出す。あの踏切がどこの踏切だったかを知るすべはもうない。でも、僕はきっとこの地の踏切だっただろうと思う。 あの時思わずシャッターを切らせたのが、
「この風景なんだよ、お前を未来で待っているのは」という予感だったんだとしたら、それはまたひとつのいいドラマだから、僕はそう信じることにしている。
あれから30年が経った。その風景は、今や僕の背景になった。

Profile

1975年大阪府生まれ。7歳から20歳まで横浜市で過ごす。大学卒業後、東京の出版社で雑誌記者として勤務。画家になろうと1年2か月で退社した後、ふらの農協が募集する農作業ヘルパーとして富良野へ。農業を手伝う傍らで絵を描く生活を続けるうち、「半農半画家」と呼ばれるように。富良野近郊で描いた作品に加え、国内外を旅して描きためた作品も多く、個展で人気を博す。新聞・雑誌に絵と文の連載を持つなど文筆業も行う。2017年より富良野高等学校美術科非常勤講師。
◯著書
『谷間のゆり 夕張』『大地のうた 富良野』『北海道の駅舎 上巻・下巻』『廃材もらって小屋でもつくるか』『難行苦行の《絵描き遍路》をやってみた』(以上、寿郎社)『大人が楽しむはじめての塗り絵 北海道の旅 1,2』(いかだ社)

今井 克

(イマイ カツミ)

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